学生ライフ
イチ大学生が考えてみた「民主主義とは何なのか」【社会派コラム】

偉い人の言うことがすべて正しいなんてありえない。
偉い人は自分の立場を守るために平気で嘘をつくし、
真実をもみけそうとする。
だから、人の言ったことを安直に信じるのではなく、
自分の力で真理を探究し、
自分の考えで物事を判断してほしい。
真実は自分の目で確かめるものです。

大学とはそういう場所だと思います。

本日(記事執筆時)5月3日は、憲法記念日ですね。

1947年の日本国憲法施行から71年目を迎えた今日、

しばしば語られるのは「民主主義の危機」

ニュースでデモの様子が中継されるたびに思いませんか、

「何かヤバいことが起こるんじゃないか…」と。

とはいえ、では一体何がヤバいのか、

大学構内に立看板が立ち、正門前には横断幕が掲げられているものの、

そもそもそこで主張されている「民主主義」とは、何のことなのか。

今回、いまどきの大学生が運営するメディアのライターにしては
いまどきそうでいまどきでない、すこしいまどき大学生のかぶさんが、

「民主主義とは何なのか」

という社会派テーマに通ぶって切り込んでいきます。

 

フランス革命
絶対王権に対する貴族の反抗に始まった騒乱は全社会層を巻き込み、
ブルボン朝の栄華を終わらせました。

明治日本
板垣退助は薩長中心の新政府に対して専制政治であると批判し、
広く国民の意見を反映させる国会の開設を要求しました。

60年代アメリカ
公民権運動がピークを迎えるなか、運動家たちによるシュプレヒコールは
「デモクラシー(民主主義)」でした。

辞書的な意味では、民主主義とは

「権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考えとその政治形態」

とされます。

しかし歴史を顧みると、民主主義はその辞書的な概念以上に、

ある集団が周囲の人々を取り込み、団結させるための、物理的なスローガン

として使われてきたことがわかります。

そして、民主主義は集団間における衝突のなかでしか存在を証明することができず、
さらにそれを証明できるのは常に勝者の側だけでした。

第一次世界大戦の頃、連合国側政府は国民と資源の総動員のため、

この戦争は民主主義を守るための戦いである

戦勝後には、

民主主義の勝利である

と唱えました。

戦争自体が連合国、同盟国双方にとって望まれたものでなかったにも関わらず。

「何かできている」という感覚

ではスローガンとして民主主義を唱える際の、

そこにある根本的な欲求とは何なのでしょうか。

私は、それは集団内における

「何かできている」

という感覚なのではないかと考えます。

板垣退助は発足した新政府に対し、

当時自分の居場所がないと考えていたのではないでしょうか。

同様に、自分が属する国という集団の意思決定において

「何かできている」

と感じられないことから、

立看板や横断幕が現れ、デモが起こるのではないでしょうか。

それらは「何かできている」という感覚の獲得を目指していく手段のひとつであると言えます。

そして、集団で意思決定をしていくうえで全員が何かできているという感じることなんてめったにないのではないかと思います。

部活やサークル活動を振り返ってみてもそうだったのではないでしょうか。

まとめ

民主主義は、集団が人を巻き込み団結させるスローガン

根本的欲求は、集団内で「何かできている」という感覚

であり、

集団において全員が何かできていることはめったにない。

つまり、

今日、民主主義は危機に陥っているわけではない

と私は考えます。

起こっていることは、

現在「何かできている」感覚を得られていない層のなかに、
積極的にその状況を変えていこうとする人が多いのです。

そしてそこに衝突が起こるから、

「民主主義」が証明されやすくなっているのです。

私はそんな、

「何かできている」感覚がないから状況を変えるために行動すること、

こそが、むしろ民主主義を守るうえで健全なことだと思います。

だから今の状況は健全へと向かっているのだと思います。

一番よくないのは、

「何かできている」感覚が得られなさそうだから、そもそも何もしない、

例えば投票自体をしないことです。

民主主義を危機に導くのは、

「何かヤバいことが起こるんじゃないか…」と思いつつも、

そもそもなにもしない、考えない

サイレントマジョリティーなのではないでしょうか。

浅はかな知識で恥ずかしながら、自分なりに考えて判断して発信してみました。

大学とはそういう場所だと思います。

 

 

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